中学受験 歴史 昭和時代の重要ポイントまとめ

中学受験 歴史 昭和時代

「中学受験の昭和時代は覚えにくい」「どうやったら覚えられるの?」と歴史に対して苦手意識を持っているお子さんも多いでしょう。昭和時代は、約62年続き、日本の中で最も長く続いた時代です。昭和元年と64年は期間が共に7日間であり、実際の期間としては62年と14日もあります。

これだけ長い期間があり、なおかつ昭和時代は近代のため、多くの出来事の記録が残っています。記録が残っていれば、中学受験の知識として、覚えるべきことも多くあります。長引く戦争による恐慌、関東大震災、そして第二次世界大戦敗戦後は、日本国憲法の発令、オリンピック開催、公害病、バブル崩壊など、日本の政治や経済も大きく変化した時代です。世界では戦争と平和の動きが深刻な影響を及ぼします。

このように、昭和時代というのはトピックスが豊富にあり、それをおさえながら時代の流れをつかむのが大変です。そのため、苦手意識を持つお子さんが多い時代でもあります。

そこで、中学受験業界を熟知した中学受験アンサー編集部が、中学受験の歴史「昭和時代」の重要ポイントについてご紹介していきます。戦前と戦後で覚えるべきキーワードをピックアップし、苦手意識を取り除けるようにまとめました。ぜひ参考にしてみてください。

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一つ前の単元である「大正時代」についておさらいしたい人はこちらの記事を参考にしてください。

昭和時代の重点ポイントをまとめると…

昭和時代の重点ポイント

  1. 敗戦までの流れ
    昭和恐慌
    満州事変による国連脱退
    日本、第二次世界大戦へ参戦
    終戦へ
  2. 戦後の日本
    日米関係を基本に復興・発展
    朝鮮戦争と日本への影響
    新安保条約の締結
    高度経済成長
    経済復興の裏に公害
    バブル経済
  3. 日本国憲法
目次

昭和時代とは

1926年12月25日から1989年1月7日まで、20世紀の大半を占めたのが昭和時代です。昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、大正の後、平成の前の時代にあたります。約62年もの期間続いたため、一言では表せないほど沢山の出来事がありました。

昭和時代は、前半は戦争が続き、そこから第二次世界大戦での敗戦、過酷な戦後復興など激動の時代となりました。第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切られます。敗戦までの流れや戦後の日本に焦点を当て、代表となる出来事をみていくと、流れをつかみやすくなります。

敗戦までの流れ

歴史において戦争は目を背けることができない大切なものです。昭和時代を知るために、まずは第二次世界大戦前までの様子を確認していきましょう。

昭和恐慌

昭和恐慌は、1929年秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込む世界恐慌の影響が日本にもおよんだものです。1930年から翌1931年に掛けて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌となりました。

大量の金が海外に流出し、輸出は激減、農産物の物価が急落してしまいます。それにより、企業の倒産やリストラも相次ぎ、失業者が増大。さらに、大凶作に見舞われた北海道、東北地方の農村では欠食児童、女子の身売りが急増しました。財閥などは、ドル買いにより金輸出再禁止後に巨額の為替差益を獲得しますが、この行為は財閥への非難を高め、血盟団事件などの発火点となります。

また、関東大震災による傷跡がさらなる経済恐慌を生み出し、不景気の中で昭和が幕開けすることになりました。このように昭和初期の日本経済は低迷を続け、国民の生活に深刻な打撃を与えたのでした。

もちろん、そのままの状態でいるわけにはいかないので、日本は昭和恐慌対策を行います。1931年政府は商品価格の下落を防止するために「重要産業統制法」という法律を制定しました。これは企業のカルテルを政府が公認する法律で、カルテルを通して商品価格の下落を防ごうとしたのです。

カルテルとは同業者たちが価格競争を避けるために協定を結んで商品価格や販売エリアなどを事前に決めてしまうことです。これはかなりリスキーな行為ですが、昭和恐慌の際には価格下落を防ぐために政府公認になりました。ちなみに今の日本ではカルテルは独占禁止法という法律で禁止されています。

もう一つの対策として、特に被害の深刻だった農村の立て直しをはかるため、2つの政策を打ち出しました。1つ目は「時局匡救事業」という公共事業です。公共土木事業をたくさん実施し、農村の人々にたくさん仕事を与えました。

もう1つの政策は「農山漁村経済更生運動」という取り組みです。農民たちに補助金を与えたり借金の返済期間を延長することで農民たちに立ち直りのチャンスを与えました。さらには各町村ごとに立て直し計画が策定され、町村の人々が一致団結する体制が出来上がったのです。この2つの政策の結果、1933年には日本は不況から脱出することができました。

満州事変による国連脱退

国民政府が台頭し、日本軍大尉が殺害される事件が起こるなど、満州の雰囲気は緊迫している中、満洲鉄道の線路が爆破されます。関東軍はこれを中国側の仕業として、南満州の都市を武力制圧しました。この出来事を満州事変といいます。

日本は満州国の建国を宣言し、政府はそれを認め、日本世論は関東軍を支持していました。その一方で、国際社会はこの満州国建国に対し、日本の自作自演を疑います。国際連盟はリットン調査団を派遣し、日本が作った満州国は正当なものなのかが調査されたのです。

調査の結果、満州国を返還するようにと「リットン報告書」を国際連盟に提出しました。国際連盟で日本軍の撤兵が可決し、日本はこれを不服とし、国際連盟を脱退する事となりました。

1933年にはリットン報告書を基に国際連盟特別総会で審議されます。日本以外の参加した全加盟国が賛成したのです。つまり、反対していたのは日本のみということになります。日本の代表として、総会に参加していた松岡洋右はこの結果を受け入れることはできないと、決別を意味する演説を行いその場を後にしています。

日本、第二次世界大戦へ参戦

1941年12月8日の真珠湾攻撃を皮切りに第二次世界大戦へ突入します。太平洋戦争の始まりです。太平洋とその周辺でアメリカ・イギリス・中国・ソ連などの連合国と戦ったのです。

日本軍は現在のフィリピンのマニラ、シンガポール、ビルマ(ミャンマー)などに勢力を広げ、南進政策を実行し、この日本軍の快進撃に国内は沸き返り、東条内閣に対する国民の支持は高まる一方でした。

しかし、日本の敗退は続き、国民は無謀な戦争の犠牲になる一方。遂に、米軍の日本本土空襲が本格化し、米軍が沖縄に上陸します。そして、ポツダム宣言が発表されますが、内閣は無視してしまうのです。

終戦へ

大平洋戦争で戦局が悪くなると、陸軍と対立していた海軍が「東条降ろし」を行い、1944年には内閣が倒れてしまいました。その後、1945年8月に広島と長崎に原爆投下、ポツダム宣言を受諾することによって、第二次世界大戦は幕を閉じたのでした。

原爆を投下することについては、アメリカ軍の中にも反対する声があったといわれています。しかし、日本の本土決戦でアメリカ兵の命が奪われるのを避けることと、ライバルであるソ連(現・ロシア)にアメリカの軍事力を見せつけるために、行われたと言われています。

しかし、終戦のきっかけは、原爆投下以外にもあります。当時、日本はソ連に間に入ってもらい、話し合いによって戦争を終わらせようと試みました。しかし、1945年7月にソ連が敵側にまわって戦争に加わってしまったのです。

このような状況に至っても、陸相などは戦争継続を主張しました。しかし、最終的に日本に手立てがなくなり、天皇が裁断する形で『終戦』を迎えることになります。ポツダム宣言とは、連合国が日本の降伏を勧告するための宣言で、受諾することで長く行われた戦争は終わりを迎えたのでした。

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戦後の日本

戦争が終わると、産業は疲弊し、1946年の鉱工業生産指数は10年前の31%にまで落ち込んでしまいました。そのため1946年11月には石炭不足のため旅客列車を16%削減、さらに翌年1月から4月までの間は、急行列車を全廃する事態となり、製造工業の生産指数も52%にまで低下し、日本のGNPは米国の僅か4%程度にまで低落してしまいました。

その結果、365万人の在外軍人を含み、総計643万人にも及ぶ海外からの引き揚げ者を収容できるような産業の状態ではなく、街には戦災孤児や失業者が溢れていました。

兵隊や外地からの引き揚げにより、都市部では人口が爆発的に増加します。さらに、爆撃によって交通・流通網が損壊したことで流通が鈍化し、町には物が溢れたヤミ市が多く現れました。人々は食べ物にすら苦労する生活を強いられますが、ここから復興の道を突き進んでいきます。

日米関係を基本に復興・発展

占領軍であるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が「指導」する形で、日本の本格的な民主化への改革を進めます。吉田茂は、マッカーサーと共に改革計画を推進したアメリカのGHQが指導する政策の真意を見抜きます。吉田茂の行動力と交渉とで、日本を占領軍から独立させることに力を尽くしました。

また、平和憲法として成立した日本国憲法も、日米関係の中で初めから揺らぎます。はじめのうちは、日本の再軍備を全く認めない姿勢を取っていたGHQでしたが、憲法が成立するときには日本政府にとって解釈の幅がもてる内容となっていました。後に、朝鮮戦争が勃発すると、米国と政府は日本の再軍備化を目指すようになります。

また、軍事力強化を目指す日米新安全保障条約が、国会で強行採決されて締結されました。数十万人もの人がこれに反対し、抗議運動である「安保闘争」が起こりました。安保闘争は、1959年から1960年、1970年の2度にわたり日本で行われた日米安全保障条に反対する国会議員、労働者や学生、市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動です。

朝鮮戦争と日本への影響

1950年、マッカーサーは年頭の挨拶で日本の自衛権を認める趣旨の発言をしますが、その背景には朝鮮半島での緊張がありました。米ソが対立する中、北朝鮮が韓国を攻撃し朝鮮戦争が勃発します。米軍は国連軍として日本を拠点に朝鮮半島へ向かいます。この戦争の物資調達のために特需景気が起こり、日本は不況から抜け出すこととなるのです。

また、米軍不在の防衛力不足を補うため、マッカーサーは警察予備隊の創設を指示しました。戦争と前後して、レッド・パージという共産主義者を国内から追放する動きも盛んに行われます。国連軍を指揮していたマッカーサーは、途中から参戦した中国の本土爆撃を主張。最終的に米大統領のトルーマンと対立し、解任されてしまいます。

日本政府は講和条約を結んで独立する事を望み、米国もこれ以上占領を長引かせるのは得策ではないと考えました。問題となるのが米軍基地のことであったため、日本政府は米軍の駐留を望むという形で基地の存続を認めるのです。

講和条約の相手は複数でしたが、条約草案は米国が単独で作成します。共産圏も含めた全面講和(逆は片面講和)に調印すべきとの声も多く在ったが、政府は米国が提案する講和案を如何に調印するかを重要視するサンフランシスコ平和条約が結ばれ、GHQの日本占領は終わりを告げました。

占領が終わるにあたり、政府は警察権を強化した破壊活動防止法を提出します。しかし、メーデー事件によって議会での論議は進み、公布に達します。朝鮮戦争と占領期間の終結によって、米軍との協力体制が確立されて、後の自衛隊設立の基礎が築かれたのです。

新安保条約の締結

病に倒れた石橋湛山の後に首相となった岸信介は、安保条約の問題点を解決し、日米新時代の構築を宣言します。問題点とは米国の日本防衛義務が記されていない事や、条約の期限が明記されていない事でした。岸は訪米し、これらを明確にした新安保条約の交渉を開始する事を米国政府に同意させます。

その頃、日本国内では、教員の勤務評定制度を徹底させる通達が出され、これに反対する教職員らのデモが激しくなります。そこで、岸内閣は警察の権限を強化した警職法を国会に提出します。警職法は廃案となりましたが、岸の強硬姿勢は保守対革新の対立をより鮮明にしました。安保改正の動きに対する反対運動も勢いを増し、国内は騒然とした雰囲気になりました。

1960年、自民党が単独で新安保条約と日米地位協定を採決を強行し、翌日、一か月後に条約が参議院の審議を通さず自然承認されることが発覚し、反対派は驚愕します。連日、デモが続き、首相は「あくまで新安保の成立を期する。声なき声の支持あり」と言って強硬姿勢を崩しません。その後も大規模な反対運動があり、犠牲を払いながらも、6月19日に新安保条約は成立しました。

高度経済成長

戦後の日本経済は1950年からの朝鮮戦争による「特需景気」によって回復し、急成長をしました。この、1950年代半ばから1970年代はじめにかけての時期を「高度経済成長期」といいます。

岸内閣の次の内閣を率いた池田隼人首相は、経済政策の充実化を図り、10年で国民所得を二倍にしようという、所得倍増計画を打ち出します。太平洋ベルト地帯を中心に、鉄鋼や機械、化学などの重化学工業が発展し、石炭よりも安い石油にエネルギー資源の主力が変化していったことも経済の成長を支えました。

1968年には西ドイツを抜いて資本主義国でアメリカにつぐ世界第2位の国民総生産国になりました。対外的にも経済政策が推進され、米国の他に中国ともLT協定(日中長期総合貿易に関する覚書)が結ばれます。

このような日本の成長ぶりを内外に示したのが、新幹線の開業や東京オリンピックの開催でした。東京都内を中心に地下鉄などの整備も急速に進められ、東京の都市化に拍車がかかります。大量生産によって価格が下がったことで、電化製品や自動車なども普及します。

1950年代中ごろから白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の「三種の神器」が一般家庭にも多く流通しました。こうした経済成長でめざましく日本は成長していきますが、1973年におきたオイルショックでブレーキがかかってしまったのでした。

経済復興の裏に公害

1973年、中東で第4次中東戦争が勃発し、それにより石油の価格が急騰し、オイルショックが起こります。トイレットペーパーや洗剤など、直接には石油と関係のないモノまで庶民による買い占めが起こり、日本中がパニックに陥りました。それにより異常なインフレが起こり、1974年の1月まで続く事となりましたが、1950年代半ばからの高度経済成長を経て、日本は一時期、世界第二位の経済大国となったのです。

しかし、その陰で多くの社会問題も発生します。4大公害病と呼ばれる水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの公害問題が深刻でした。これは、戦後、重化学工業化が急激に進んだ高度成長期に各地で産業による公害が多発したものです。そのため、日本は世界でも有数の公害大国となってしまいました。水銀や鉱山の廃液、亜硫酸ガスが原因とされ、明治期以来の産業振興や戦後復興、経済発展を目指すという社会的背景が公害問題を引き起こしたといえるでしょう。

池田内閣の次の佐藤栄作内閣も、それまでの経済政策を引き継いでいましたが、公害問題が深刻化したため、公害対策基本法を公布します。その4年後の1971年には、環境庁が設置されました。

バブル経済

第一次、第二次オイルショックと立て続けに起こることで、世界経済は低迷を続けました。日本は、金融引き締めや企業の緊縮経営を行うことで乗り切って、世界に先駆けて不況から脱出する事に成功します。

欧米諸国では労働者への賃金確保などが課題となったのに対し、日本では労働運動が盛んではありませんでした。そのため、欧米に比べて賃金の上昇率を抑えることに成功し、不況脱出のポイントとなったのです。

このようなオイルショック後の低迷する世界経済からいち早く立ち直ったことで、日本の経済ははプラザ合意による円高時代を迎え、新たな段階に進みます。それが、実態のないバブル経済でした。泡のようにどんどんと膨らむ経済は、あっさり弾けてしまいます。

戦後半世紀を経て、日本は自他共に認める経済大国となりましたがその間、日本の政治体制は変化を続けていました。世界では米ソの冷戦が終結、国際情勢は協調の方向へ動きます。国際社会の中での日本が果たす責任と役割を見据える時代となりました。

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日本国憲法とは

昭和の日本での大きな動きの一つとして、外すことができないのが日本国憲法です。戦後すぐから憲法の改正の動きがとられ、大日本帝国憲法から様々な改訂が行われました。

日本国憲法の特徴

日本国憲法は『人権の保障』と『国の政治の仕組み』という2つの要素で構成されています。憲法に反する法律や命令には効力がありません。憲法によって私たち国民の自由や権利が守られているのです。

大日本帝国憲法では、主権は天皇にありました。しかし、現在の日本国憲法は主権者は国民です。第二次大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が作成した草案をもとにして、日本国憲法は作られています。日本国憲法の三つの基本原則として、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を掲げています。

日本の政治を国民が選んだ代表者によって行われる議会制が採用されたことで、自分たちの意見を政治に反映させるためには選挙に参加することがとても重要になりました。国民に主権があるため、天皇は日本国と日本国民統合の象徴となり、天皇の国事行為にはすべて内閣の助言と承認が必要です。

帝国議会の審議

戦後すぐ、政府関係者や外務・法務官僚は、憲法改正の必要性に気付き、議会で審議されます。日本がポツダム宣言を受け入れて降伏すると、アメリカ軍を主力とする連合国軍が日本を占領しました。GHQが日本政府に指令を出し、軍国主義を取り除いて、民主主義を推し進める政策を実行します。その一環として、新憲法の制定が指示されました。

マッカーサーはGHQに憲法改正案の草案の作成を指示し、日本側の改正案を拒否し、自衛のための軍事力保持さえも否定しました。その後、GHQが独自に憲法草案を作ることになります。

世界の憲法とともに、日本の民間団体である憲法研究会による憲法草案要綱も参考にされました。ここには、日本国憲法の基礎となる『天皇の権限の限定』や『国民主権』『生存権』『男女平等』といったものも含まれています。

さらにその後、普通選挙で選ばれた代表者たちが、GHQ案をベースにした憲法草案を国会で審議、議決しているのです。かくして、①国民主権(主権が国民にあること)、②基本的人権の尊重(人間が生まれながらにして持つ権利)、③平和主義という3つを基本原則とした日本国憲法が誕生します。「日本国憲法」は、1946年11月3日に公布され、翌年5月3日から施行されることになりました。

三つの原則

日本国憲法には、重要な三つの原則があります。

一つは、国民主権です。漢字の通り、国の主権が国民にあるというものです。主権が国民にあるということで、国民が国の決定ごとを決める権限をもっていることになります。「政治」で国の決定事項を決めていくことになり、政治を進める国の代表を国民が選びます。国民が中心となって政治を動かしているということになるのです。

二つめは、平和主義です。国際平和を達成するために武力を用いることを否定し、陸軍や海軍といった戦力を持つことも放棄しました。平和主義は、戦争の反省から生まれた原則です。『戦争で悲惨な経験をしたことを繰り返してはいけない』という強い思いからです。この平和主義は、日本国憲法の第9条からその原則の内容を知ることができるため、後程詳しく説明します。

そして、三つめが基本的人権を尊重することです。基本的人権というのは、誰もが生まれてから死ぬまで自由に生きる権利、平等に生きる権利、安心で安全に生きる権利、といった、みんなが自由に平等に生きていくうえで大切な権利のことすべてを含んでいます。

日本国憲法第9条

よく議論の的になる第9条では、①戦争の放棄(第1項)、②戦力の不保持(第2項)、③交戦権の否認(第2項)、が定められています。日本は核兵器を「持たず、つくらず、持ちこませず」という非核3原則をかかげています。これは世界で唯一のことです。核兵器と軍縮を撤廃し、戦力を持たないことで国際平和を訴えることも原爆を投下された日本の使命といえるでしょう。

また、現在の日本国憲法は、第二次大戦の経験から平和主義を基本原理としており、戦争を放棄することでも世界平和を訴えています。また、アメリカとの間で結ばれた日米安全保障条約によって、日本にはアメリカ軍の基地をはじめとした施設が多くあります。他の国からの攻撃に対し、共同して対処するために必要だという考えから、こういった施設が設置されています。

現在世界の各地では、地域紛争やテロも起きています。自衛隊は戦争には参加をしませんが、国連平和維持活動(PKO)や各地の紛争処理への参加はしており、世界で様々な活動をしています。

そして、この第9条では「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」これに続く第二項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」となり、第二項の初めに「前項の目的を達するため」の文言を挿入しました。

戦力の保持は認められていませんが、何か起きた時に国を防衛するために、日本には自衛隊があります。ただし、自衛か武力かという点で、憲法に対する意見が分かれ、たびたび問題になっているのが現状です。

まとめ

昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、 20世紀の大半を占めました。大きな出来事としては、第二次世界大戦での敗戦から、過酷な戦後復興などがあり、激動の時代ともいえます。このように、このように、昭和時代はひとことでは表せないくらいたくさんの出来事があるため、知識の整理ができず混乱する子たちも多いです。そのため、ここで紹介した内容をもとに、流れをつかみ、それぞれの出来事の内容の理解を深めていきましょう。昭和時代における中学受験の重要ポイントは次のようになります。

昭和時代の重点ポイント

  1. 敗戦までの流れ
    昭和恐慌
    満州事変による国連脱退
    日本、第二次世界大戦へ参戦
    終戦へ
  2. 戦後の日本
    日米関係を基本に復興・発展
    朝鮮戦争と日本への影響
    新安保条約の締結
    高度経済成長
    経済復興の裏に公害
    バブル経済
  3. 日本国憲法

たくさんのことが起きた昭和時代ですが、その中でも、第二次世界大戦や平和憲法として成立した日本国憲法など、令和の時代にも忘れてはいけない出来事も多いです。ただの社会の勉強としてだけではなく、平和な日本、世界を築いていくために知っておくべき、考えておくべきことも多くあります。ただ出来事を覚えるだけでなく、その出来事に対して自分がどう思うのか、ということを考える機会をぜひとってみましょう。

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中学受験の歴史「昭和時代」の次の単元は「平成時代」です。

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