大仏をはじめ、後世に残る多くの文化財が生まれたのが「奈良時代」です。
奈良の大仏を遠足や修学旅行などで一度は目にしたことがある中学受験生も多いのではないでしょうか。間近でみると、そのスケールの大きさに圧倒されてしまいますし、仏教というものがいかに当時の人々にとって重要なものであったのかがわかると思います。
ですが、実は奈良時代の人々は決して豊かな生活を送れていたわけではなく、重い税金や飢饉によって生きることすらギリギリの生活を送っていました。それこそ、大仏などを作っている場合ではなかったのです。
天皇と日本に暮らす人々、そして身を犠牲にして日本のために尽力してくれた中国の高僧たち。奈良時代という時代には、実は教科書には載らないような数々のドラマがあり、そこに映る人間模様は中学受験生にもぜひとも知っておいてもらいたいものばかりです。
この記事では、中学受験の歴史「奈良時代」の重点ポイントについてまとめているので、これから受験勉強を開始する中学受験生は正しく知識を覚えて、奈良時代の文化や暮らしについてしっかりと押さえるようにしてください。
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一つ前の単元である「飛鳥時代」についておさらいしたい人はこちらの記事を参考にしてください。
奈良時代の重点ポイントをまとめると…
奈良時代の重要ポイント
- 奈良時代の年代
・奈良時代の年代開始は710年
・奈良時代の年代終了は784年 - 法律と暮らし
・710年平城京と元明天皇
・和同開珎,木簡,防人
・723年三世一身の法
・743年墾田永年私財法 - 仏教の広がり
・741年東大寺と聖武天皇
・国分寺と国分尼寺
・鑑真,行基,道鏡 - 天平文化
・東大寺の正倉院
・古事記
・日本書紀
・風土記
・万葉集
奈良時代はいつからいつまで?
奈良時代はいつから始まった?
奈良時代は都が藤原京(現在の奈良県橿原市)から平城京(へいじょうきょう)に移された西暦710年からスタートします。
よく中学受験生の間で混同されやすいのが一つ前の飛鳥時代と奈良時代です。いずれも仏教が日本に広まったこと、都が同じ奈良県にあったこと、政治の中心であった聖徳太子と聖武天皇が漢字も似ていることなどが大きな原因です。
また、当時の中国の唐とも飛鳥時代、奈良時代ともに年代が重なっていることから、それぞれ遣唐使などを通した文化や政治に関しての共通点が多いことも受験生を戸惑わしている理由の一つです。
まずは、基礎情報として奈良時代は「なんと(710年)きれいな平城京」から始まったことを覚えておくようにしましょう。
奈良時代はいつまで続いた?
奈良時代はいつまで続いたのでしょうか。奈良時代の開始が平城京への都の移動であったように、奈良時代の終了も次の都に移ったところが時代の区切りとなります。
中学受験生が覚えておくべきは、次の桓武天皇(かんむてんのう)によって長岡京(現在の京都府)に移される西暦784年までの74年間を奈良時代とする考え方です。平安時代が実に400年近く続いたことを考えると、74年間で新しい都に移ったのは一時代としては短かったといえるでしょう。
また、より広い時代区分で考えると、同じく桓武天皇が10年後の794年に平安京に都を移して始まる平安時代の開始とあわせて、奈良時代は794年までの84年間続いたと考えることもできます。
いずれにしろ、100年を満たず都が移って奈良時代は次の時代へと移ったことを覚えておきましょう。
奈良時代の二人の天皇「元明天皇・聖武天皇」
奈良時代で覚えておくべき天皇は二人います。それぞれの天皇が行ったこと、そしてその当時にどのような人々の暮らしがあったのかを見ていきましょう。
なお、登場する二人の天皇について分かりやすくまとめている動画もあるので、まずは動画を視聴してみて人物に対するイメージを付けてください。
元明天皇と平城京
710年に持統天皇がつくった藤原京から、元明天皇(げんめいてんのう)が平城京に都を移します。この都は唐の都であった長安(ちょうあん)をまねをして作られ、非常に規模も大きく整理された美しさがありました。
平城京に元明天皇が都を移した理由として重要なのは次の4つです。
- 前の藤原京は土地がせまかった
- 唐に対して日本の力を示す
- 天皇の力を国内に示す
- 建築技術が発展した
いくら長安をまねして作ろうにも、それができるだけの建築技術や国民を統制する朝廷の力がなければ建設することはできません。そういう意味で、当時の朝廷にはそれらを実現する力が備わっていたことがわかります。
平城京が美しいのは、その碁盤(ごばん)の目のように東西南北にわたってきれいに道路が区切られているところです。東西で約4.2キロメートル、南北で約4.7キロメートルもあり、本場長安の約4分の1にもなる大きさでした。逆にいえば、当時の長安がいかに広大であったのかが分かりますが、人口で比べると圧倒的に唐のほうが多かったので無理はないでしょう。
なお、当時の日本全国には約580万人の人がいたとされ、そのうち平城京だけ約20万人の人が暮らしていたとされています。驚くことに、平城京に貴族は約150人ほどしかいなかったのに対して、都で働く役人が約1万人、残りの約19万人は一般民衆であったと考えられています。
奈良時代の人々の暮らし・生活
奈良時代では、産業で見たときにはいくつかの発展が見られました。
まず、農業では鉄製農具が広く用いられるようになり、米や麦の生産が増加します。ただし、この後にも触れますが、どの農民もが鉄製農具を使えたわけではなく、田畑の開墾(かいこん,耕して新しく作ること)には多くの労力が必要でした。
地方では、金銀銅といった金属類が産出されるようになります。有名なのは、対馬(つしま)の銀、陸奥(むつ)の金、武蔵(むさし)の銅などです。とくに、銅や銀が多く産出されるようになったことで、画期的なものが発明されることとなります。それこそが貨幣(かへい)、すなわちお金の誕生です。
708年に、唐にならって和同開珎(わどうかいちん)という貨幣が作られるようになります。銅や銀で作られ、直径が約2.4センチメートル(現代の10円玉と同じくらいの大きさ)の硬貨です。その後に富本銭という貨幣が発見されるまでは、日本最古の貨幣としても有名でした。中学受験生は覚えておくようにしましょう。
そのほかにも地方で様々な特産物が調(税の一つ)として都に集められ、そのときの運搬の荷札として木簡(もっかん)が利用されていました。
このように、産業の面では貨幣の流通や農業用具の発達などが見られた奈良時代ですが、日本の人口の大部分を占める農民は重い税金に苦しみました。
それに当時は、人々は良民と賤民(せんみん)とに分けられ、賤民は個人の自由というものがなく、そのなかでも奴婢(ぬひ)と呼ばれる人たちはいわゆる奴隷として扱われ、人々に売り買いされてひどい扱いを受けていました。
良民とされる農民たちであっても暮らし向きはよくありません。飛鳥時代で開始された租庸調制度により毎年決められた分の重税を国に納める必要があり、さらには都から遠く離れた地方の農民たちはそれらの税をわざわざ自分たちで都まで運ばなければなりませんでした。
そして、当時最も人々を苦しめたのが防人(さきもり)という徴兵制度です。
日本を統一していた朝廷にとって恐れていたのは外国からの侵略者です。とくに、中国や朝鮮からの侵攻を恐れ、大陸から最も近い北九州が日本防衛の最前線でした。そのため、国は九州以外の地方からも農民たちを防人として招集するのです。
この防人が人々を苦しめた理由は、防人に行ったからといって給料をもらえるわけではないということです。さらには、道中にかかる食費や旅費などすべてが農民の自己負担となり、たとえ子どもがいたとしても子どもを置いて防人としての任務を果たさければなりません。防人に出ている期間の税金も免除されず、とてもひどい制度だったことが分かります。
このようにして、当時の農民たちはひどく税金や制度に苦しんでおり、一方で朝廷では大規模な都の建設や大仏・寺院の建造など、後世に残された文化財と当時に生きた人々の暮らしとの間にはっきりと光と闇があったことが分かってくるのです。
墾田永年私財法の制定
この当時の農民は実はまだ竪穴式住居に住んでいることが多かったです。500年以上前の弥生時代から大して農民の住まいは変わっていなかったことには驚きです。
そんな農民たちの間では、重い税金から逃れるために自分の家や口分田を捨てて、浮浪人(ふろうにん)と呼ばれる戸籍がない状態になる人が増えていきます。
当然ながらこれによって困るのは朝廷です。なぜなら、税金がちゃんと集まらなくなるからです。そこで朝廷は次のような法律を制定します。
三世一身の法
723年、三世一身の法(さんぜいっしん)とは、口分田の不足を補うために、人々に新しく田んぼを開墾することをすすめるものです。これは、一度新しく開墾した田んぼはそれを開墾した人の子孫3世代まで自分のものとすることが許されるというものです。
3世代というのは、つまり開墾した親→子→孫までの3世代という意味で、現代の感覚からすると100年以上は続くと思われますが、当時の寿命が短かった時代ではそれこそ結婚するのも10代と若く、せっかく努力して開墾した田んぼも数十年で国に奪われてしまうというひどい制度でした。
まして、当時は鉄製農具を使えるような農民も限られており、想像してみてほしいのですがなにもない荒れ果てた土地を稲が育てられる田んぼに変えるのに、どれだけの労力と時間が必要になってくるのか、現実的ではないということです。
墾田永年私財法
そのようにひどい三世一身の法であったことから、農民たちは田んぼを開墾しようとせず、いっこうに朝廷への納税は増えませんでした。そこで、最終手段として打ち出したのが墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)です。
743年、朝廷は墾田永年私財法を制定したことで、農民たちが新たに開墾した田んぼをそのまま農民たちの土地として所有することを認めます。これは期限があるわけでもなく、永久に自分の土地とすることを認めるというものでした。
これにより、田んぼは新しくつくられ、朝廷に納められる税金も増えていくのですが、天皇を中心とした朝廷にとっては想定外のことが起こります。
それは、力のある貴族や寺社が農民たちを使って土地を開墾するようになり、それによって自分たちの私有地を増やしていったのです。このときに生まれた私有地のことを荘園(しょうえん)といいます。
それまでは公地公民制という日本の土地はすべて国、そして天皇のものであるという考えでしたが、墾田永年私財法が制定され、力のある者たちが自らの土地を広げていったことで公地公民制が完全に破たんしていきます。この荘園の増加は、奈良時代の8世紀から16世紀まで続いていきます。
結局、農民たちは自分たちの土地を所有することができず、力のある者がいっそう権力を伸ばしていくという構図が生まれていくのです。
聖武天皇と仏教の広がり
あまりにひどい国内の状況を見かねて、聖武天皇(しょうむてんのう)が仏教の力で国を治めようとします。実はこの時代、即位した天皇が次々と亡くなり、伝染病や災害も起こって日本国内は悲惨な状況でした。
741年、聖武天皇は奈良に東大寺(とうだいじ)を建て、さらに日本全国の国(現代の都道府県のようなイメージ)に七重の塔がある国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)を建てさせます。
そして、東大寺の金堂には「奈良の大仏」としても有名な盧舎那仏(るしゃなぶつ)という大きな大仏を建てさせるのです。
もちろんこれは、日本国内のひどい状況をおもっての事業でしたが、ただでさえ災害や飢饉(ききん)で苦しんでいた農民たちにとっては、全国からわざわざ人手としてかり出され、ますます人々の生活を苦しいものとしました。
中国の僧と遣唐使
大仏の建造など、国内の仏教普及に力を貸してくれたのが唐の僧です。ここで覚えておくべきは次の三人の僧です。
- 鑑真(がんじん)
754年に聖武天皇に招かれて来日。唐招提寺(とうしょうだいじ)を開く。 - 行基(ぎょうき)
奈良の大仏建造の責任者。ため池や橋などを作り、民衆に支持された。 - 道鏡(どうきょう)
朝廷での政治で活躍。天皇の座も狙った。
鑑真や行基は仏教を広めるだけでなく、当時苦しんでいる民衆のために様々な取り組みも行ったことから人気が高く、鑑真が建てた唐招提寺は現在国宝にも指定されています。
また、中国から来日して活躍した人がいたように、遣唐使として大陸にわたって活躍した人もいます。そのなかでも有名なのが、遣唐使の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)です。
阿倍仲麻呂は優秀だったために留学先の唐で役人となり、そのまま何度か帰国を試みますが失敗が重なり、とうとう日本へ帰国することなく生涯を唐で終えることとなります。
天平文化
聖武天皇が在位した729年~749年の間の文化を天平文化(てんぴょうぶんか)といいます。全盛期だった唐の影響を強く受け、貴族を中心とした仏教的な文化でした。
天平文化の建造物として代表的なものは東大寺で、なかでも宝物を納めておく蔵である正倉院(しょうそういん)は重要です。
天平文化で中学受験生が覚えるべきは、次の歴史書です。
- 古事記(こじき)
712年、稗田阿礼(ひえだのあれい)が暗唱した内容を太安万侶(おおのやすまろ)が記録 - 日本書紀(にほんしょき)
720年、舎人親王(とねりしんのう)を中心にして作成 - 風土記(ふどき)
713年、朝廷が諸国に命じて作成 - 万葉集(まんようしゅう)
天皇から農民の和歌4500首を集めた日本最古の和歌集
とくに、古事記の「記」と日本書紀の「紀」は漢字が違うことは中学入試でも間違えやすいので注意しましょう。
中学受験は算数や国語ではなく、「社会」の出来で合否が決まります!
そのため、第一志望に合格したいのであれば、歴史を家庭学習でまず最初に固めるのが断トツの近道です!
● 算数の1点と社会の1点は、入試総合点で考えれば同じ1点
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・歴史のポイント、入試に出る所だけを最速でCD学習したい受験生
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奈良時代のまとめ
それでは最後に奈良時代の単元の重点ポイントのまとめをしていきます。
奈良時代のまとめとして、次の4つの項目をなにも見ずとも出来事やその年号、関わりのある人物を言えるかどうか確認してみてください。
- 奈良時代の年代
- 法律と暮らし
- 仏教の広がり
- 天平文化
答えられない場合は、もう一度それぞれの見出しに戻って読み返して要点を押さえましょう。中学受験の重要ポイントは次のようになります。
このように、奈良時代には仏教に関連した多くの文化財がつくられた一方で、農民を中心とした人々の生活はけっしてよくありませんでした。人々が生きるのにやっとという状況であったからこそ、よりどころとして仏教が信仰の対象として広く支持されたともいえるでしょう。
似たようなキーワードも多いことから、中学受験生は注意してこの単元を学習するようにしてください。
中学受験の歴史「奈良時代」の次の単元は「平安時代」です。