中学受験 歴史 江戸時代 【後期】の重点ポイントまとめ

中学受験 歴史 江戸時代後期

江戸幕府の滅亡と開国によって新しい時代が始まるのが「江戸時代【後期】」です。

世界にも類を見ないほど長きにわたって戦乱のない世の中が続いた江戸時代が、黒船の来航や幕末武士たちの活躍などによってドラマチックに幕を閉じていきます。

大河ドラマや学習漫画といったエンタメでも取り上げられることも多く、中学受験生にとってもなじみやすい登場人物や歴史的史実にあふれたこの単元は、ある意味学習意欲を引き起こしやすい単元だといえるでしょう。

一方で、中学生になってから学習する世界史との関連も深い単元であることから、開国までの過程をいかに日本が歩んでいったのかを正しく理解できているかどうかは、今後の歴史の学習にも大きく影響を及ぼすことから気は抜けません。

そこで中学受験生が学習しやすいように、江戸時代を前期(約1600~1650年)、中期(約1650~1750年)、後期(約1750~1867年)の3つの区分に分けたときの「江戸時代【後期】」について、中学受験生が押さえておくべき重点ポイントを詳しくまとめていきたいと思います。

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一つ前の単元である「江戸時代【中期】」についておさらいしたい人はこちらの記事を参考にしてください。

江戸時代【後期】の重点ポイントをまとめると…

江戸時代【後期】の重点ポイント

  1. 江戸時代後期の政治
    ・田沼意次…株仲間、蝦夷地の開拓
    ・松平定信…享保の改革、寛政異学の禁
    ・水野忠邦…天保の改革、株仲間の解散
  2. 開国と倒幕運動
    ・1853年ペリー来航
    ・1854年日米和親条約
    ・1858年日米修好通商条約
    ・1859年安政の大獄
    ・1860年桜田門外の変
    ・1862年生麦事件
    ・1863年薩英戦争
    ・1866年薩長同盟
    ・1867年大政奉還
  3. 江戸時代後期の文化・文学
    ・化政文化…町人のこっけい文化
    ・十返舎一九「東海道中膝栗毛」
    ・滝沢馬琴「南総里見八犬伝」
    ・与謝蕪村、小林一茶
    ・喜多川歌麿の美人画
    ・葛飾北斎、安藤広重の風景画
目次

江戸時代【後期】の政治

江戸時代後期の政治

江戸時代【後期】の時代区分

まず、この記事でまとめている江戸時代【後期】が具体的にいつの時代を指すのかを触れておきます。

江戸時代【後期】は、幕府の政治立て直しに尽力した8代将軍徳川吉宗の享保の改革が終わった後から、15代将軍徳川慶喜によって政権を朝廷に返上し、江戸幕府がたおれたときまでを指しています。

年代にすると、1750年頃から1867年までを江戸時代【後期】と定めています。

田沼意次の政治

8代将軍徳川吉宗の死後、9代将軍徳川家重(いえしげ)、10代将軍家治(いえはる)のときに老中として政権を握ったのが田沼意次(たぬまおきつぐ)でした。

田沼意次はもともとは紀州藩(現在の和歌山県と三重県の南)の幕臣の子どもにすぎなかった出自ながら、政治の世でうまく身を立て、5万7千石という大名にまで上りつめました。

田沼意次はその子どもの意知(おきとも)とともに、幕府の立て直しのために商人たちの財力をうまく利用しました。具体的には、次の4つの経済政策をしました。

  1. 印旛沼などの干拓
  2. えぞ地の開拓
  3. 株仲間への特権
  4. 商人の専売制
  5. 長崎貿易の制限緩和

なかでも重要なのは、享保の改革で初めて結成された株仲間(かぶなかま)です。田沼意次の時代にはその数は多くなり、株仲間には商売の特権を与える代わりに税金を多くとって幕府の収入を増やそうとしました。

しかし、その一方で幕府と商人との結びつきがどんどん強くなっていき、「わいろ政治」とも言われて民衆たちの不満は高まっていきます。

そんななかで1772年に江戸で大きな火事、1783年からは天明の大ききん(てんめいのだいききん)や長野県と群馬県の間にある浅間山(あさまやま)が噴火するなど災害が相次ぎ、百姓たちの一揆(いっき)や打ちこわしが増えていきます。

そして、1786年にとうとう田沼意次は政治の世界から失脚することとなりました。

松平定信の政治「寛政の改革」

田沼意次が失脚した後に老中となったのが松平定信(まつだいらさだのぶ)です。徳川吉宗の孫にあたります。

松平定信は11代将軍徳川家斉(いえなり)のもとで、徳川吉宗が行った享保の改革にならって寛政の改革(かんせいのかいかく)という政治改革を行いました。1787年のことです。具体的には、次の7つの政治改革を覚えておいてください。

  1. 倹約令(けんやくれい)…武士や町人、役人たちのぜいたくや不正・わいろを取り締まる
  2. 囲米の制(かこいまい)…ききんに備えて大名たちに米を蓄えさせる
  3. 帰農令(きのうれい)…都市に出稼ぎに出ていた農民を農村に帰らせた
  4. 棄捐令(きえんれい)…旗本や御家人の借金を帳消しにした
  5. 人足寄場(にんそくよせば)…都市にいる無職の人々に職業指導をした
  6. 沿岸警備…ロシアの船を警戒して沿岸の警備を強めた
    林子平(はやししへい)の書いた「海国兵談」で警備の重要性が説かれる
  7. 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)…朱子学以外の学問を幕府の学校で禁じる

寛政の改革によって政治は引き締められ、幕府の財政状況はよくなったものの、商人をないがしろにしたり、町民には厳しすぎたりするなど、人々の不平不満の声が高まり、1787~1793年の6年間という短命で改革は終了しました。

水野忠邦の政治「天保の改革」

ききんや災害、厳しい政策が実施されたこともあって、田沼意次の時代あたりから百姓一揆(ひゃくしょういっき)が増えていきます。さらに都市では、町人たちがききんによって生活に困り、米屋や酒屋、質屋など襲う打ちこわしが頻繁に起こりました。

そして、天保年間となった1830年代に、日本各地で作物の凶作によって飢え死にするものが増え(天保の大ききん)、百姓一揆や打ちこわしが一気に行われました。

この状況を見かね、1837年に大阪の役人であった大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が民衆たちをせんどうして富裕層を襲いました。これが大塩平八郎の乱です。

この状況を見かねて、1841年11代将軍徳川家斉の死後、老中の水野忠邦(みずのただくに)が政治の中心となって天保の改革を行いました。1841年~1843年までの政治改革です。具体的には、次の4つの政治改革を実施しました。

  1. 倹約令…ぜいたくを禁止、生活全般の禁令が多く出される
  2. 株仲間の解散…物価を引き下げるために株仲間を解散させた
  3. 人返し令…帰農令と同じく、出稼ぎしていた農民を農村に帰らせた
  4. 上地玲(あげちれい)…江戸や大阪の大名の領土を幕府の直轄地とする

この頃には生産のしくみががらりと変わって産業が発達します。従来は問屋制家内工業(とんやせいかないこうぎょう)という農家が製品を家で製作して問屋が買い取るのが主流でしたが、途中から地主や商人が工場を建てて労働者を雇って生産する工場制手工業(マニュファクチュア)が増えてきました。

ですが、やはりこの政治改革も厳しすぎたために町人や農民ならず大名や旗本からも不満が高まり、たった2年で改革は失敗に終わります。

また、幕府主導のものだけでなく各地の諸藩でも自主的に財政立て直しや政治の整備が行われるようになりました。長州藩や薩摩藩でも実施されたことは後に大きな意味を持ってきます。

開国から倒幕まで

ペリー来航と開国までの流れ

幕府の対外政策

1792年、ロシアのラクスマンが現在の北海道の根室にきて通商を求めますが、江戸幕府は長崎に入港できる許可だけを与えました。

1804年、同じくロシアのレザノフが長崎にきて通商を求めますが、やはり幕府は鎖国を理由としてこれを拒否しました。

幕府はロシアに対する守備をかためる理由から、間宮林蔵(まみやりんぞう)に蝦夷地(えぞち)や樺太(からふと)の探検を命じます。

1825年には徳川家斉が外国船打払令を出して、日本に近づく外国船を武力で追い払いました。ですが、1840年にアヘン戦争が起こり、清がイギリスに敗れた後は打払い令をゆるめました。

その後、オランダ国王が日本に対して開国をせまる文書を送りますが、幕府はこれを拒否します。この頃から外国人は侵略者なので討つべしという攘夷論(じょういろん)と、天皇の絶対的権力を支持する尊王論(そんのうろん)という二つの思想が生まれます。

ペリーの来航

1853年、黒船とよばれる軍艦4隻を率いて浦賀(うらが,神奈川県)にペリーがやってきます。開国をせまる国書を持ってきたペリーに対し、幕府は翌年回答することを約束していったんは日本から去らせます。

1854年、再度ペリーが軍艦7隻を率いて来航し、幕府はとうとうアメリカとの日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結び、下田(しもだ)函館(はこだて)の2港を開いたことで200年以上続いた鎖国政策が終わりました。

この後、アメリカ以外にもイギリス、ロシア、オランダとも同じような条件の条約を結びました。

1858年には、アメリカ総領事として来日していたハリスに強く要求され、大老の井伊直弼(いいなおすけ)が朝廷の許しを得ないままに、日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)が結ばれました。

日米修好通商条約の内容で覚えておくべきは次のとおりです。

  1. 5港(函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫)の開港
  2. 治外法権…日本で犯罪を犯した外国人を外国の法律で裁く
  3. 関税自主権の撤廃…外国の輸入品に自由に関税をかけられない

日本にとって不利な内容ばかりが条約で決められてしまい、その後イギリス・ロシア・オランダ・フランスとも同じ内容の条約を結ぶこととなりました。

倒幕までのながれ

井伊直弼が朝廷の許可を得ずに通商条約を結んだことで、尊王攘夷派の反対運動が強くなります。

そして1859年、井伊直弼がそれら反対派を処罰した事件が起こりました。安政の大獄(あんせいのたいごく)です。吉田松陰(よしだしょういん)もこのとき死刑となります。

このような厳しい弾圧にしびれを切らした水戸藩の浪士によって、1860年に井伊直弼は暗殺されました。これが桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)です。

幕府の独裁がしだいに弱まっていき、反対に外国勢力を日本から追い出そうとする尊王攘夷の動きがしだいに高まっていきます。

1862年に生麦事件(なまむぎじけん)と呼ばれる、大名の行列前を乗馬のまま横切ったイギリス人を殺傷する事件が起こりました。

この報復として、1863年にイギリスが7隻の軍艦をひきいて鹿児島を襲撃、イギリス対薩摩藩の薩英戦争(さつえいせんそう)が起こりましたが、あっけなく薩摩が敗れます。

ですが、このときに武力の差をまざまざと見せつけられた薩摩藩は、その後イギリスと手を組み武器を購入して軍事力を高めていきました。

一方で長州藩は1863年に下関海峡を通る外国船を襲撃し、その翌年にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国連合艦隊によって下関の砲台を攻撃・占領され、尊王攘夷の運動は失敗に終わります。

ともに外国との実力差を知った薩摩藩・長州藩ですが、まず長州藩では高杉晋作(たかすぎしんさく)桂小五郎(かつらこごろう)などが中心となって、開国をめざして倒幕運動を開始します。

そして、薩摩藩では西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)が倒幕運動をおこし、土佐藩の坂本龍馬(さかもとりょうま)が仲介となることで薩長同盟が結ばれました。1866年のことです。

薩長だけでなく岩倉具視(いわくらともみ)といった公家も参加し始め、いよいよ倒幕運動が強くなってきたことで、15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)はとうとう政権を朝廷に返すことを申し出ました。これが、1867年大政奉還(たいせいほうかん)といいます。

1192年の源頼朝の時代より700年にわたって続いていた封建政治の終了、そして、260年あまり続いた江戸幕府がほろぶこととなりました。

江戸時代後期の学問と化政文化

江戸の学問と化政文化

江戸時代後期の学問

日本の古典を研究する国学がおこり、本居宣長(もとおりのりなが)が古事記伝(こじきでん)を書いて国学研究を大成します。

その一方で、徳川吉宗の頃に洋書の輸入がゆるされたことで、蘭学(らんがく)とよばれる西洋の知識が広まっていきました。

なかでも医学の知識が広まり、前野良沢(まえのりょうたく)杉田玄白(すぎたげんぱく)によって解体新書(かいたいしんしょ)というオランダの解剖書の翻訳本がつくられました。

洋学はオランダ商館の医師であったドイツ人のシーボルトが長崎に鳴滝塾(なるたきじゅく)を開くなど、ますます広がりと発展を見せていきました。

中学受験はもとより、この単元で重要なのが伊能忠敬(いのうただたか)によって日本地図がつくられたこと、平賀源内(ひらがげんない)によって摩擦起電器のエレキテルがつくられたことです。

化政文化

11代将軍の徳川家斉の頃には、社会に対する風刺や皮肉、こっけいを喜ぶ町人文化である化政文化(かせいぶんか)が興隆を迎えました。

文学では、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」、滝沢馬琴(たきざわばきん)の「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」が有名です。

俳諧(はいかい)では、自然をたくみに表現した与謝蕪村(よさぶそん)や民衆の気持ちを題材にした小林一茶(こばやしいっさ)を覚えておきましょう。

芸術では、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の美人画、葛飾北斎(かつしかほくさい)安藤広重(あんどうひろしげ)の風景がは中学受験でも重要です。

民衆の娯楽もこの時代に最盛期をむかえ、現代にも残るような舞台装置を駆使した歌舞伎(かぶき)も人気を集めるようになります。

このように、社会のいきづまりに対して町人たちを中心とした独自の文化が発展していきました。

江戸時代【後期】のまとめ

それでは最後に江戸時代【後期】の単元の重点ポイントのまとめをしていきます。

江戸時代【後期】のまとめとして、次の3つの項目をなにも見ずとも出来事やその年号、関わりのある人物などを言えるかどうか確認してみてください。

  1. 江戸時代後期の政治
  2. 開国と倒幕運動
  3. 江戸時代後期の文化・文学

答えられない場合は、もう一度それぞれの見出しに戻って読み返して要点を押さえましょう。中学受験の重要ポイントは次のようになります。

  1. 江戸時代後期の政治
    ・田沼意次…株仲間、蝦夷地の開拓
    ・松平定信…享保の改革、寛政異学の禁
    ・水野忠邦…天保の改革、株仲間の解散
  2. 開国と倒幕運動
    ・1853年ペリー来航
    ・1854年日米和親条約
    ・1858年日米修好通商条約
    ・1859年安政の大獄
    ・1860年桜田門外の変
    ・1862年生麦事件
    ・1863年薩英戦争
    ・1866年薩長同盟
    ・1867年大政奉還
  3. 江戸時代後期の文化・文学
    ・化政文化…町人のこっけい文化
    ・十返舎一九「東海道中膝栗毛」
    ・滝沢馬琴「南総里見八犬伝」
    ・与謝蕪村、小林一茶
    ・喜多川歌麿の美人画
    ・葛飾北斎、安藤広重の風景画
中学受験で歴史分野を最速で得意にしたい方へ

中学受験は算数や国語ではなく、「社会」の出来で合否が決まります!
そのため、第一志望に合格したいのであれば、歴史を家庭学習でまず最初に固めるのが断トツの近道です!

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